車の中で、薫はぶつぶつと話しかけてきた。 「お前んちのダンマリのことを考えてるのか?」 「いや、誰があいつなんか考えるもんか」 聡はスマートフォンを放り投げ、冷淡な声で答えた。 「お前、あんなに好きじゃないなら、ちゃんと彼女に説明すればいいのに。あの子、口もきけないし、本当に可哀想だろう」 「あいつが可哀想?」聡はネクタイを引っ張りながら、妙に苛立ちを覚えた。「何が可哀想なんだ?俺はこれまで、何不自由なくあいつを育ててきた。それなのにどうだ?結局、育ったのは自分勝手な恩知らずだ。ちょっと注意しただけで、冷戦を始めるなんて、大したもんだよ。」 「まあ、子供の頃から一緒に育ってきたんだし、恋がなくても家族愛くらいはあるだろう。電話でもかけて、少し落ち着かせたらどうだ?」 「そんな必要ない。」聡はスマートフォンを一瞥し、さらに冷たく言い放った。「誰が彼女の我がままを助長したんだ」 そうは言いながらも、しばらくしてから彼はスマートフォンを手に取り、私に一通のメッセージを送った。 内容は至ってシンプル。 「明日の夜、家に戻って夕食を食べる」 ほら、彼はこんな風に、自分が正しいと信じて疑わない態度でしか和解を求めない。私の気持ちなんて、いつも無視している。 ただ、聡はまだ知らないんだ。 もう、私の気持ちを気にする必要なんてないことを。 私は、もう何も感じられなくなっているから。 車内に「ピン」とlineの通知音が響いた。 聡は目を開け、少し奇妙に感じた。 「阿風、今、車の中でスマートフォンの音がしなかったか?」 「まさか。車にはお前と俺しかいないんだぞ。スマホの音なんかなかったよ。お前、このところ疲れすぎて幻聴でも聞こえたんじゃないか?」
「そうか?」 聡は眉間を揉みながら、再び目を閉じた。 私も目を閉じた。 もし、聡がもう少しだけ自分の考えを明確に伝え、たとえ電話一本でもかけてくれたなら―― たとえ彼の声を永遠にはっきりと聞けなくても。 私の携帯の着信音が鳴るでしょう。 鳴るはずだった―― 彼のこの車のトランクの中で。 だが、彼はそうしなかった。 以前も、今も。 これからも、もう二度とないでしょう。 私の腎臓のおかげで、葵の手術は大成功だった。 聡は本当に葵を気にかけていた。彼女が目を覚まさなくても、彼はずっと彼女のそばを離れなかった。 葵が目を覚ましたとき、ようやく聡は心から安堵の息をついた。 「聡、私を救ってくれてありがとう。」 「気にしないで、葵。俺たちは友達だし、葵も昔俺の命を救ってくれたじゃないか。」 葵はかすかに笑みを浮かべ、それ以上は何も言わなかった。 術後の弱さゆえに、言葉を発する力がないように見えた。 だが、私だけは知っていた。 彼女が言葉を飲み込んだのは、罪悪感からだということを。 彼女は知っていたのだ。 かつて聡を救ったのは彼女ではなく、私だったということを。 それでも、聡にとっては、彼を救った人が誰かなんて重要ではなかった。 重要なのは、篠宮葵という存在そのものだったのだ。
篠宮葵が私たちの生活に現れたのは、聡が大学に入った年のことだった。 彼は頻繁にある女の子の名前を口にするようになった。 篠宮葵。 私はこっそり彼女を見に行った。とても美しく、家柄も良い、まるで高貴な白鳥のようだった。 話すこともできず、聞き取ることすらできない私とは、まるで雲と泥のように別世界の人。 その後、聡と彼女が山に登りに行くとき、私は密かに二人の後を追った。 そこで私は、聡の笑顔を目にした。 それは、私の前では見せたことのない、軽やかな笑顔だった。 その瞬間、彼を失うのが怖くなった。 私は陰気なピエロのように、その美しい二人の後ろをこそこそとついて行った。 二人が口論し、別れるのを目にして、私はようやく安堵の息をついた。 だが、その口論が、聡の命を危険にさらすことになった。 彼は足を滑らせ、崖から転落してしまったのだ。 私はどうやって彼を見つけたのか覚えていない。 体重が50キロにも満たない私が、70キロを超える彼を背負って、どうやって一歩一歩大通りまで運んだのかもわからない。 ただ、その夜の月光がとても優しかったことだけを覚えている。 そして、聡がずっと私の耳元でささやいていた。 「ダメだ、俺は死ぬわけにはいかない。俺の星ちゃんが家で待っているんだ……俺がいなければ……みんな星ちゃんをいじめるんだ」 その瞬間、私の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。 聡、あなたはいつもそうだ。いつも、そうなんだ…… だから、私はどうしてもあなたを諦められない。
葵のすべての数値が正常であることを確認して、ようやく聡は満足して家に帰った。 彼は私にlineでメッセージを送り、今夜は家で夕食を取ると言っていた。 彼は、帰りを待っている私がエプロンをつけて、テーブルにたくさんの料理を並べ、まるで飼い主を待つ犬のように尻尾を振って喜んで迎える姿を想像していたのだろう。 だが、彼が予想していなかったのは、彼を迎えたのが冷え切った家の静けさだった。 彼はすべての部屋を探し回ったが、私の姿はどこにもなかった。そして、ついに携帯電話を取り出した。 彼はようやく私に電話をかけた。 私が死んでから三日目に。 スマホの向こうから聞こえてきたのは、予想通りの電源オフの音だった。 聡はスマホを床に叩きつけた。 「夕星!ダンマリ!ついに頭に乗ったな!いいだろう!お前が一生駄々をこね続けられると思うなよ!」 そう言って、聡は再びスマホを拾い上げ、長い指で勢いよくメッセージを打ち込んだ。「夕星、今夜家に戻ってこなければ、もう二度と帰ってくるな!」 彼はそのメッセージを送ってから、携帯をソファに投げ捨て、さらに思い直して強い口調で続けた。 「もし今夜12時までに返事がなかったら、俺たちの結婚もなしだ!」 私は空中から彼を見下ろし、彼が自暴自棄になってネクタイを引きちぎる様子を苦笑いしながら見守っていた。 聡、今夜私は確かに戻らない。 そして、もう二度と帰ることはない。
その夜、聡はまるで閉じ込められた獣のように、時折スマホをじっと見つめていた。 彼はベッドに行って眠ることもなく、ソファでずっと待っていた。 まるで、この何年も私がしてきたことのように。 夜が明けるまで、彼は血走った目を開けた。 「いいだろう、川上夕星。このダンマリめ、よくやったな!見つけたら、皮を剥いでやるから覚悟しろ!!」 でも、聡、私はもうあなたに皮を剥がされているんだよ。 私は静かにため息をついた。 誰にも気づかれず、 ただ風がカーテンをそっと揺らすだけ。 聡は一晩中眠らず、私に何度も電話をかけたが、応答はなかった。そしてついに、私のスタジオに行くことを思いついた。 しかし、彼がそこにたどり着く前に、病院から電話がかかってきた。 葵が体調が悪いと騒ぎ出したのだ。 彼は一瞬迷ったが、すぐに車に乗って病院へ向かった。 それを見た私の心は、すでに冷たい水のように静かだった。 そうだね。 聡は葵のために私を置き去りにするのは、これが初めてではない。 そして、これが最後でもないだろう。 聡が大学に通っていた頃、私たちの経済状況は良くなかった。 彼の父親はまだ彼に連絡を取らず、聡は自分の生活費や学費を稼ぐだけでなく、彫刻を学ぶ私の費用も支えなければならなかった。 私は聡に、こんなにお金のかかる学科はやめたいと伝えたことがある。 学校に行かずに、皿洗いや露店で働くことだってできる。彼を少しでも楽にできるなら、何でもやるつもりだった。 実際、私はすでに働いていた。 ホテルの客引きモデルとして。 雪の日にはミニスカートを履いて寒風に震えていた。 聡が友達と食事をしに来たとき、そんな私を見た。 彼がその時どんな目で私を見ていたか、私は言葉では表現できない。 だが、きっと彼は私のことを恥ずかしく思ったのだろう。 その日は食事をすることなく、私を無理やり連れて帰った。 「誰がこんな格好をしろと言った!夕星、俺はお前に満足に食べさせてやれてないのか?こんなふうに自分を卑しめるなんて!」 私は彼に、ただ少しでも楽をさせてあげたかっただけだと手で示した。 聡は冷たく笑い、「お前が稼ぐその少しの金じゃ、自分の補聴器も買えやしないだろ」 私はとても悔しかった。補聴器なんて
私は少し未練がましく、後ろに遠ざかる自分の仕事場を見つめた。 私はあまりにも早く死んでしまった。仕事場にはまだ完成していない彫刻が残っているというのに。 でも、もういい。それも、もう重要ではない。 聡は焦りながら病院に戻り、葵は涙で顔を濡らして泣いていた。 「聡、私、体調が悪いの。肾臓に何か問題があるんじゃないかしら。いつも気分が悪いの。」 聡は彼女に詳細な検査をした結果、何の異常も見つからなかったことを確認してから、優しく彼女を慰めた。 「葵、心配しなくていいよ。これは気のせいだよ。腎臓を一つ換えただけだ、大したことじゃない。見て、俺だって何年も前に腎臓を移植したけど、今でも全然問題ないだろ?」 「そうかしら?」葵は涙を浮かべながら言った。 「そうだよ。そういえば、俺たちだって同じような運命の仲間だ。君は腎臓を一つ換えたし、俺も換えた。そして、俺たちは二人とも稀少な血液型を持っている。もし俺の腎臓が問題なかったら、あの時君に自分の腎臓をあげたかったくらいだよ……」 聡がそう言った瞬間、彼の顔色が少し悪くなった。 葵もそれに気づいた。 「聡、どうしたの?」 聡は夢から覚めたかのように頭を振り、「いや、何でもない。多分……偶然だよ、きっと。」 私は愛の言葉を交わす二人を見ながら、心の中で冷たい悲しみを感じた。 馬鹿ね。 聡、あなたはどれだけ頭が良くても、一つだけ気づいていないことがある。この世にそんなに多くの偶然なんてあるはずがない。 あなたの血液型は非常に稀少なのに、どうしてそんな簡単に腎臓の提供者が見つかったのか。 ましてや、あの時あなたは何も持たない貧乏な若者だった。 少しでも私に気を配っていたなら、気づいたはずだ。 あなたが手術を受けたとき、私はいなかった。それは拗ねて姿を消していたわけじゃないんだ。 隣の病室に横たわっていたの。 あなたの体の中にあるその腎臓は、私のものだったんだよ。
なぜか分からないが、聡は葵の病室に長く滞在しなかった。 彼は先輩に電話をかけた。 「先輩、あの時僕に腎臓を提供してくれた人、本当に調べられないのですか?」 「聡、頼むから俺たちを困らせないでくれ。」先輩は電話の向こうでため息をつき、一言付け加えた。「聡、お前はもうすぐ星ちゃんと結婚するんだろ?彼女は本当に苦労してきたんだ。これからはもっと彼女を大事にしろよ。」 聡の母親が亡くなったとき、彼は私に八つ当たりした。 でも実は、彼がずっと自分を責め続けていることを私は知っている。 なぜなら、あの日、本来私の家に来るはずだったのは彼だった。 彼が駄々をこねたせいで、結局彼のお母さんが小さなケーキを持って私の家に来たのだ。 それ以来、彼はずっと母親に対して罪悪感を抱き続けてきた。 彼は実は優しくて親切な人なのだ。 だから、あの年に腎臓移植をするとき、私は彼の先輩の前でひざまずいて懇願したのだ。 どうか、聡が自分の体にある腎臓が私のものであると気づかないようにして欲しい、と。 私は、彼が私への罪悪感を抱えたまま生きていくことを望んでいなかった。 この数年、先輩はその秘密を守り続けてくれた。 聡は顔色が悪く、青ざめた顔で家に飛び出していった。 長年隠してきたが、ついに彼はその真相に辿り着いたのだろう。 けれど、家の中は相変わらず何もなく、空っぽだった。 私は、彼が狂ったように私に電話をかけ続けるのを見ていたが、電話はすべて電源が切れた音ばかりだった。 彼は顔を両手で覆い、ソファに崩れ落ちた。 しばらくして、彼の涙が指の隙間から静かにこぼれ落ちた。 「星ちゃん、教えてくれ、それはお前じゃないよな?違うんだろ?」 そうだね、違うよ、お兄ちゃん。 もしあなたがそう望むなら、私はどれだけでも嘘をついてあげる。 あなたが、望むなら。
私は幽霊の目で聡が少し焦っているのを見ていた。 何かを確認したいのか、彼は家中の引き出しや棚をひっくり返していた。 私の服が一着もなくなっていないことを確認して、彼は一息ついた。 しかし、すぐにスマホの着信音が鳴った。 彼は喜びの表情を浮かべ、素早く電話を出た。 しかし、それは結婚式のプランナー会社からの電話だった。 「もしもし、川上夕星様のご家族の方ですか?ブライダルの株式会社エターニティーです。この数日間、川上様とで連絡が取れなかったため、仕方なくこちらに電話しました。川上様が結婚式のパッケージをキャンセルしたいとおっしゃったので、規定によって、デポジットの30%しか返金できませんが……」 「ブライダル?」聡は驚いた様子だった。 しかし、彼がさらに驚いたのは、「なぜキャンセルするのか?」ということだった。 「川上様が、彼氏と結婚できなくなったと言っていたので、すべてキャンセルされました。」 パーン—— 聡の電話は地面に落ち、彼はそれを拾おうとしたが、手が震えていることに気づいた。 「夕星、お前は本当に……俺を捨てたのか?」 私は結婚式をキャンセルしたけど、彼はあまり嬉しそうではなかった。 でも、普通なら彼は喜ぶはずなのに。 実は、聡が私に結婚を申し込む前に、私は彼にプロポーズしていた。 その時、私はすでに妊娠していることに気づいていた。 自分の子供が名前も立場もない私生児になるのは嫌だった。 ただ、私が聡にプロポーズした時、彼はしばらくの間驚いていた。 「星ちゃん、こうして一緒に一生を過ごすのはいいじゃん?結婚そのものは、俺たちにとってそれほど重要じゃない。俺は永遠にお前を守り、ずっとそばにいるよ。」 彼は……私のプロポーズを断ったということだろう。 その後、彼が結婚を承諾したのは、葵の病気のためだった。 そして、私たちが完全に決裂した後、彼が一生私を娶ることはないとさらに理解した。 だから、結婚式をキャンセルした。 ただ、私はこのキャンセルを彼への誕生日プレゼントにしようと思っていた。 でも今考えると、それはもう無理だ。